考えたこと, Internet

続、百花斉放百家争鳴

(日本の?)インターネットは揉め事が大好きという事例に遭遇…。こんなことは、すでに日常のことになってしまったけれども…。

事実など確かめもせず、第三者が衝突を煽り、あるいは一方を批判し、逆に嗜めたり慰めたり...そうした第三者的な(自己満足な)行ないが、擁護でも批判でも、その争いを大きくすることに加担していることにその当事者は気づいていない。さらには、その中で全くの事実無根のことを流布され、当事者以外の第三者が巻き込まれていくという厄介な問題とか、自らの主張を通すためにその争いを利用する、なんてこともあるようだ…。 これから先、前期高齢者のリストラとかリタイアとか若年層の雇用問題、貧困とか先行きの不安とかで精神的に追い込まれていく、自暴自棄になる…そこから生まれる衝突はさらに増えていくのだろう。そして、ネットワーク経由のコミュニケーションが、それら不安を主因とするごたごたの加速器になっていることは、残念だが間違いない。 「百花斉放百家争鳴」という言葉を知ったのは、ちょうどネットワーク上のコミュニケーションのあり方とか興味を感じ始めた頃だった。それは数十年前に毛沢東が唱えた政治運動だけれど、コミュニケーションが「Free Frank Flat」な場所であるネットワーク上で様々な意見、議論が自由に取り交わされる、そんなネットワークのユートピアをその言葉に感じていた。 それから何年も経って、その「理想郷」と今の現実があまりに違ってしまったと嘆く自分と、もう一方に、結局は「傍観」という姿勢が一番だと思っている自分がいる。なんだか、最後は党による悪徳分子の炙り出しに使われた「百花斉放百家争鳴」の末路を見ているような居心地の悪さを感じている。  今、言えることは揉め事に遭遇したならば軽い気持ちで関わってはいけないということだろう。徹底的に付き合う当事者になりたければそうすればよいが、中途半端に関わるぐらいなら勇気を持って傍観する。考え方の違いを認識するのみ、生半可な態度で関わってはいけないことを覚悟する。それが理想郷ではない現実での折り合いの付け方だ。

「理想」は現実をあぶり出す。理想郷などポエムだと嗤われるかもしれないけれど、たぶん現実を超えるためには、うまく現実と折り合いをつけながら、理想を想像し続けることしかないのだ…

自分への戒めとして。

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