答えが先に来る時代に

本当に怖いのは、AIが賢くなりすぎることではなく、AIがうまく働いてしまうことで、人間が考えるのをやめてしまうことではないか…

答えが先に来る時代に
AIを前に考える自分…NanoBananaPro作

2026年が始まった。

年末年始、AIの話題を追っていると、「今年は労働への影響が本格化する」という声が増えていた。投資家も、メディアも、なんとなくそう言い始めている

ただ、しばらく考えていて、本質はそこではない気がしてきた。
本当に怖いのは、AIが賢くなりすぎることではなく、AIがうまく働いてしまうことで、人間が考えるのをやめてしまうことではないか。


AIは答えを出す。調べて、まとめて、比較して、もっともらしい結論を提示する。
一方、専門家が引き受けているのは「答え」そのものではない。その答えを使うと決めること、そしてその結果の前に立つことだ。

失敗したとき、説明する。批判されたとき、矢面に立つ。それでも「そう判断した」と言い切る。決断に責任を持つのがほんとうの専門家。これはAIにはできない。だから専門家は当面いなくならない。


それでも、ぼくの不安が消えないのは、こういうことだ。

専門家は残る、でもその専門家はどこで作られるのかということ。
多くの専門家は、最初から専門家だったわけではない。調べ役をやり、下書きを書き、失敗し、怒られ、少しずつ判断を覚えてきた。その過程で「こうしたらどうなるか」と何度も想像し、外れ、また想像することで、判断の精度を上げてきた。

ところが今、その最初の工程をAIが引き受け始めている。
効率は上がる。仕事は早く終わる。けれど、答えが先に来ると、人は想像しなくなる。必要がないから。想像する機会そのものが、静かに消えていく。

これは、専門家だけの話ではない。
仕事で判断を求められる人。家庭で選択を迫られる人。日常で「どうしようか」と立ち止まる人。つまり、ぼくら全員の話だ。
想像する、考える機会を失い続けると、判断する力が少しずつ錆びていく。
そしてこれはAIを使うかどうかと言う問題ではない。

考えることを、誰が引き受けるのか。 失敗を、どこで許すのか。 想像する機会を、どう残すのか。

その問いは、まだ人間の側に残っている。年の初めに、少し立ち止まって考えたこと…。


追記:

この文章は、AIと対話しながら書いた。

想像する機会を失うことへの不安を、AIに手伝ってもらいながら言葉にしている。矛盾しているようで、たぶんこれが2026年のリアル。;)